私が治療家になった理由
☆出会いは生涯忘れられない日に
平成13年9月、当時小学校1年生だった長女がアレルギー性紫斑病を発症しました。原因不明で治療法がないとされ、病院に2週間入院しました。少し症状が軽くなったところで急に退院となりましたが、その後数日で急激に悪化してしまいました。紫斑の腫れと強い腹痛のため、自力で立ち上がる体力も気力もなくなってしまいました。
病院から再入院も勧められましたが、(病院では治らない)と思い、インターネットで以前から気になっていた山田予防医術研究所に電話して予約をとりました。泣き叫ぶ長女を毛布にくるんで治療院に運び込んだ日のことは、生涯忘れることができないでしょう。
その日の初回の治療成果で、この治療が本物と確信。翌日、病院の医師と喧嘩しながら再入院を断りました。しかも最初の入院で体力低下が著しく、完全回復まで数カ月を要しましたが、その後週5日のミニバスケットボールの練習にも耐えられる程の健康を取り戻すことができました。
発症から元気になるまでの経過は、「闘病日記」として別サイトに掲載しています。まだブログが一般的では無い頃で、HTMLで作成していますが、興味と時間のある方はどうぞご覧ください。→「紫斑病闘病日記へ」
☆感動して研修生になる
通院中は、山田先生の温かいお人柄に触れながら、家で行う治療もいくつか教えていただきました。私のような素人がやってもそのすべてが効果があり、ますますこの治療が本物であることを確信しました。「この技術を身につけたら、家族を守れる!」と思い、平成14年1月に研修生になりました。
その頃、地方公務員だった私は、同居する両親、妻と3人の子供の7人家族。仕事も順調で不満もなく、開業はまだ先の話と、研修期間を延長してもらいながらマイペースで勉強していました。
そして私が最初に予想した通り、その後の家族の病気・怪我は私の治療でその多くが解決できました。うまくいかないときは山田先生や他の先生に治療してもらい、歯医者以外はほとんど保険証を使わなくてもいいほどでした。
☆市役所退職、そして開業へ
亀の歩みのような研修ペースでしたが、少しずつ治療できる範囲が増えてくると、「家族だけでなく、もっと多くの人の手助けがしたい」と思うようになりました。
次第に、ボランティアで少しずつ家族以外の治療も始めました。当時の技術でももちろん成果はでましたが、いろんな症例に触れていくうち、自分の未熟さに悩む回数も増えてきました。このまま中途半端な状態でボランティアを続けるか、もっとしっかり勉強しなおして開業するか…。そう考え始めると、次第に開業する気持ちを抑えることはできなくなってきました。
そして、妻も同居する両親も、公務員を辞めてまで開業することに誰一人反対しませんでした。きっと私の治療を通じて、自然形体療法の素晴らしさを知っていたからだと思います。
平成20年6月開業。現在、一人でも多くの方の笑顔を出会うため、日々努力しています。